「良い社会」って、なんだろう? - 森星さんの「変わっていかないと」という言葉から -
元気でやってます。みんなはどう?
アメリカの神学者、ラインホルド・ニーバーが遺した『ニーバーの祈り』が好きです。
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。
一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。
これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。
あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。
アーメン
「変えるべきものを変える勇気を、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください」
祈りの言葉って、絶対的な存在のまえで、わたしはなにを望むかをある種試されているわけですから、
よく推敲された良い言葉が多いですよね。
「将来したいことはなんですか?」と聞かれたとき「社会を良くしていたい」と答えることが多くありました。
だいたい「良くするって、なんなの?」と聞かれます。
うまく答えられなかったときは「ああよくいるこういうタイプね」と矮小化され続けてきたんですけれど。覚えているんですよ、意外とね。
「社会を良くしていたい」ということばは、形容詞と動詞でできています。
「社会が良く」が形容詞で、「していたい」が、動詞ですね。
この形容詞のほう、「良い社会」というのが、ニーバーの祈りと、あとですね
モデルの森星さんの姿から、少し言葉にできました。
この前、中川政七商店の前社長がこんなことをおっしゃられていました。
楠木さんの「#すべては好き嫌いから始まる」を読みながら気づいたこと。
— 中川淳改め、中川政七 (@jun_nakagawa13) June 15, 2019
自分の動因は「ヒーロー願望」かと思っていたけど、違った。
真の動因は「みんながそんなの無理でしょって思うことを実現する」だった。
他の人にはどうでもいいことだけど(笑)自分の中では大きな気づき。
ぼくの今回のエントリも、他の人にとってはどうでもいいことなんだけれど
自分にとっては大きな気づきだったので、書いておきたいと思います。
森星さんの言葉「それは、生活から… うーん、生き方から」
最近、仕事が忙しいです。やっと退屈なく働けるようになったよ。
特に先々週は、ぼくバスで会社に通っているんですけれど
最終バスが22時46分でですね、その帰宅がだいたい23時過ぎ、そこからご飯を食べまた少し家で仕事をする、みたいな1週間でした。
6月14日もそんな時間に帰宅したんですけれど、珍しくテレビが点いていて。そのときにうつっていたのが、森星さんをゲストにした Another Sky だったんです。
https://www.ntv.co.jp/anothersky2/articles/2187sf6k7f81dc8nlj7.html より
森星さんがニューヨークにいて、自身のキャリアの転機について語っている、というシーンでした。
そのタイミングから番組を見始めたので、前後の文脈はわかんないんですけど
すっごい笑顔で語ってられたシーンでした。
「この先、モデルとして仕事を続けていくためには、変わらないといけないと思ったんですね。
それは、生活から… うーん、生き方から」
このシーンが深く心に残っています。
キャリアのことまで考え「変わらなきゃいけない」って、相当シリアスなシーンだと思うんですけれど、
そのことを話している森星さんの顔は、はじけるような笑顔で。
きっと、特に森星さんのように、
日々を自省とともに生き、自分の個性を殺すことはできない人にとってほんとの核は変わらないんだと思うんですね。それはよく「芯」と呼ばれています。
芯は、変えられない。だとしたら、考えてることや過ごし方まで同じだとすると、それは
停滞であり、ゆるやかな死、なんです。そして、そのような性質は、もしかすると、ぼくにもあります。
おもしろい人は、変わらない。だからこそ変わり続けられる。
これはひとつ、真理だと思います。
心理的安全性においても「スッと立ち上がるように、変われるか」が試される
ぼくのひとつのテーマに「心理的安全性」があります。
甲南大学の組織開発論を研究される西川教授と、7時間話すという時間があったんですけれど。
(それはもう学び深い時間でした。この時間はぼくの言語化スキルが追いついておらず、断片的にしか話せないんだけれど)
この時間のなかで印象的に残っているトピックが「組織開発論の視点では、心理的安全性をどう整理するか」についてでした。
ちょっとまとめた図があるので、見てみてください。
肝はですね、組織的な視点で心理的安全性を語るときには、安全性はもちろん「生産性」のまなざしも絶対に外せないということだったんですけれど。
いま多くの組織で、右下の「生産性についての考慮はあるが、生産性は低い」というゾーンから、右上への移行が挑戦されています。
ティール組織の考え方がよく語られるのはその一端だと思うんですけれど。
この移行におけるキーは「安全性に関する指標を正しく設定できるか」で、いわゆるマネジメンやマネージャーの問題になることが多いみたい。
一方で難しいのは、左上のゾーンから右上のゾーンへの移行です。
ここはいくらマネージャーが「がんばろう!」と言っても無意味です。なぜなら
「主語が組織に所属するひとりひとり」
だから。
このことを西川教授は「スッと立ち上がり、こっち側へ行けるか」と表現されていました。
「勇気を持って、立ち上がれるか」とも。
このことと、森星さんの
「わたし自身が、変われるか。それは、生活から… うーん、生き方から」
という言葉からは、同質なものを感じます。
ぼくにとっての良い社会、それは森星さんのように
「変わること」への勇気を持つ人があふれていること。
そしてそれはきっと正しい勇気がなければありえない姿勢だと思いますし
冒頭に記した『ニーバーの祈り』にある
「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」を持った社会であると思うんですね。
さあ、動詞、どうするか。
ですよ。難しいなあ(笑)
ぼくはこの社会を目指し、どんな動詞で、生きていけばいいんだろう。
いまのとこ言えることは、ひたすらに体現することだよなあ。
それは、在りかたから。頑固なところがあるぼくが、軽やかに、対話から変わり続けること。
そしてその変化が良い方向へ向かっていること、です。
そして願わくば、じぶんの所属する組織の変化のタネとなること。
そして「変わるって、こういうこと」を実証すること、かなあ。
「ぜんぶ捨てるということじゃぜんぜんなくて、良くなるってことだよ。ほんで、こうやってするんだよ、ほら」ってできたらめちゃかっこいいなあ。
するぞ。成すぞ。働き続けるぞ、考え続けるぞ、自省し続けるぞ。
おい、やるぞ!!
でも美味いもの食べて、いっぱい寝るぞ。お風呂にも、つかるし。
ぼくの仲間はこんな仲間がたくさんいるんだよ。ほんとに社会の良心だよね。
さあみんな、軽やかに変わり続けよう。ぶっちぎって、他の人が説明してくれるぐらいにさ。偉い人ってみんなそうだよ、誰かが説明してくれてる。なんなら、ほら、ぼくが説明するよ。
笑顔とともに。やっていきましょう。
イスタンブールの奇跡はフットボールにどんな影響を及ぼすのかという話と、クロップからの人生の学び。
会社に大変サッカーが大好きな先輩がいます。
どれくらい好きなのかというと、リバプールのためにイギリス留学をし
プレミアに魅せられまたロンドンに住み、エバートンを一年間ウォッチする、という
「フットボールという文化」ごと、サッカーを愛している方でして。
その先輩はリバプールがいちばん愛するチームだということですが、はい、
CLセミファイナル、すごかったですね。ほんとうにすごかった。
1st Leg、バルセロナのホーム・カンプノウで0-3と完膚なきまでに葬り去られたリバプール、
アウェーゴールも奪えず、決勝進出への条件は、3点決められたバルサ相手に無失点かつ4点をもぎ取ること、
1点でも失点があった場合には、5点差以上をつけての勝利という条件。
ちなみに「無失点かつ4点差以上の勝利」もしくは「5点差以上での勝利」の条件を満たした試合、
2018年のJリーグでは4試合でした。確率は0.006%です。
(2018年J1 578試合のうち条件を満たす試合は4試合)
【UEFAチャンピオンズリーグ|ハイライト】UCL史上最大級の逆転劇!アンフィールドの奇跡| リヴァプール(イングランド)×バルセロナ(スペイン)|準決勝 2nd Leg
なにがリバプールの奇跡を可能にしたのだろうか。というか、5/2にアンフィールドで起きたあれは、なんだったのだろうか。
リバプールファンの先輩から「ちょっと冷静に振り返られないので総括しよう」とお誘いがあり話したことをまとめておきます。
サッカーの意味合いでの振り返り
「フットボールの潮目が変わるビッグマッチ」というようなものがあります。
サッカー界全体の戦術やトレンドの流れが変えられるような一戦です。
リアルタイムで見たもののなかでそれに該当するなあと感じる試合は2試合です。
直近のものでいうと、2014年のブラジルW杯、グループラウンドのスペイン×オランダ戦。
前回W杯、また2年後のユーロを制し絶頂を迎えていた、
シャビ、イニエスタにシルバやビジャ、セスクなどを擁する攻撃陣に
中盤より前はもちろん、DFラインにも細かくパスをつなぐスタイルにマッチする選手が奇跡的に揃い
ショートパス主体の「チキタカ」で世界を斡旋するスペイン代表が
ファン・ハールとロッベン率いるオランダのショートカウンターを前に、まさかの1-5で敗れ去った試合。
SPAIN v NETHERLANDS (1:5) - 2014 FIFA World Cup™
このとき世界のフットボールの潮流は、間違いなくスペイン代表とグアルディオラのバルセロナが中心となり、細かくパスをつなぐポゼッションサッカーに傾いていました。
けれどこのスペインの衝撃的な敗戦を機に、一気にショートカウンター全盛の時代になります。
いかにプレスをはめ、手数をかけずに相手ゴールを陥れるか。バルセロナも中距離のパス能力に秀でたラキティッチを経由し多くボールが回るチームになっていますし、ポゼッションサッカーの標榜者・グアルディオラでさえ、チームの中核にはショートカウンターに適性をもつスターリングとデブライネを揃えます。
現在のリバプールもこのスタイルの延長線上にあるといえますね。
もうひとつは、レアルマドリーのホーム、ベルナベウで行われた2005年のクラシコ、レアルマドリー×バルセロナ。
バルサ伝統的な4-3-3のシステムの左WGを務めるロナウジーニョが圧倒的なプレーを披露し、
ベッカムやジダンを擁し、サルガドとSラモス、GKにはカシージャス立ちはだかる
「銀河系」マドリーを0-3で沈めた試合。
Real Madrid vs FC Barcelona 0-3 Highlights 2005-06 HD 720p (English Commentary)
ここ15年、世界のビッグチームはことごとく「WGにスペシャルな選手を配置した4-3-3」を採用していました。
メッシのバルセロナ、Cロナウドのレアルマドリーを筆頭に、サラーのリバプール、ネイマールのPSG、アザールのチェルシー・・
この流れは2005年エル・クラシコのロナウジーニョがつくったものでした。
今回のアンフィールドの奇跡も間違いなくサッカー界の流れにおいて大きな意味を持つ一戦となったわけですが
これによって起きる大きな潮流の変化は
「モチベータータイプの監督の再評価」
ではないだろうかと思うのです。
ここ数年、大きな尊敬を集める監督はトップオブトップをグアルディオラとし、
その文脈で、テュヘルやマウロ・サッリ、ちょっと異色ではありますが、ビエルサなど
スペクタルなポゼッションサッカーの「戦術を構築する」タイプの監督でした。
一方で、モチベータータイプの監督が不当に評価されていた、とまでは言いませんが
雑誌なんかで監督の特集があるというと、たいていはペップ・グアルディオラの5レーンが取り上げられて
ピッチのプレーフィールドをどのように解釈するか、それにもとづいて選手はどう配置するか。
そういったことが中心的に語られていました。
一方で、モチベータータイプの監督の戦術や人柄、また「選手をマネージメントする具体的な方法論」などに
5レーンのような文字数が割かれることはありませんでしたし、スポットはあたりませんでした。
リバプール戦後、(かつての)スペシャル・ワン、モウリーニョがこんな総括を行っています。
「不可能なことはないと言うけれど、今日のような結果はだれも期待もしていなかっただろうね。
アンフィールドは不可能を可能にするための場所の1つだけど、この奇跡の中心には1つの名前がある。ユルゲンだ」
「これは戦術や哲学ではなく、心と魂、そして彼がこの選手のグループとともに生み出した素晴らしい結果だと思っている」
「彼らには素晴らしいシーズンを送ったにも関わらず、何も祝うものがない状態で(タイトルをなにひとつ獲得できず)シーズンを終えるリスクがあった。今は、ヨーロッパチャンピオンまで、あと一歩となっている」
「ユルゲンのリバプールでの素晴らしい仕事が、今日の結果になったのだと思う。
諦めないという彼のパーソナリティ、彼のファイティングスピリット、それを全ての選手が体現し、全力を尽くすことの表れが今日の結果になったのだと思っている」
「起こった全てのことは、ユルゲンのメンタリティに関することだ」
https://qoly.jp/2019/05/08/mourinho-on-liverpool-v-barca-iks-1
そう、戦術はもちろん素晴らしかったわけですけれど、主要因はそれではなく
ユルゲン・クロップという指揮官がチームに植え付けたマインドがすべての要因であった、と。
「リバプールがなぜバルセロナを相手にあの試合を演じきれたのか」を語るとき
サラーがいないことによりシャキリとオリギという献身的なトランジションを獲得したからだ、とか
ヘンダーソンを一列前でつかえるようなチーム事情になったからだ、とか、いろいろ言われますが
なんていうんでしょう、枝葉のはなしに聞こえますよね。
先輩は「ゲーゲンプレスのことを考えるとフィルミーノの不在は痛手でしかなかったんですよ」と言ってました。
リバプールがバルセロナ相手にあの試合ができたのは、クロップのマネジメントによるものだ、
そう言い切りたいと思います。
そして今後のサッカー界のトレンドは、選手たちを自身の存在で鼓舞し、ファイティングスピリットみなぎるチームをつくり
それをマネジメントできる監督が評価されていく、そんな意味を持つ試合になったのではないかと感じます。
そう、監督におけるKPIが変わったのです。これは大きな変化となるでしょう。
不可能であっても信じることはできる
あと、あの試合からの個人的な大きな学びとして。
クロップは2ndレグ前の記者会見で、こんなことを言っていました。
「目標は試合に勝利する事、突破するチャンスがあるなら、もちろん我々はそれを目指す。シーズン通じて我々は素晴らしいパフォーマンスを見せているし、今シーズン我々が続けてきた全ての事を祝う必要があるね。」
「しかし、世界最高のストライカーの2人は明日プレーしないなかで、90分間で4ゴールを決めるのは非常に困難な任務だ。もしそれができればパーフェクトだ。できなくても、可能な限り美しく散ることを目指して戦うよ」
メッシという異次元の存在に、ハプニング的に3失点を喫した1stレグ。攻撃においてはバルサの守備陣の前に無得点。チームのスター、サラーを欠き、攻守のキーマン、フィルミーノを欠く。
この状況で4-0の勝利もしくは5点差以上での勝利を「絶対に可能だ」と盲信的に思う人がいたなら、それは、そうですね、控えめに言って、できるだけ人生で接点をもちたくないタイプのそれですね。
クロップは自らのミッションを
「限りなく不可能に近い」と認識していたのだと思う。けれど、諦めることはなかった。
この姿勢は大きな学びだなあと感じます。
不可能であること、しかし信じることは両立するんだ、と。
どんなに不可能と思える状況であっても、希望を捨てず、最善を尽くすこと。仲間に貢献することを忘れないこと。最良を目指して足を動かし続けること。
そのことをリバプールの11人は教えてくれたと思いますし、あの奇跡を目にした、アンフィールドにいたリバプールサポは同じ気持ちだったんじゃないかと想像します。
素晴らしきリバプール!こんな歴史が加わり、クラブのDNAとなることがうらやましくて仕方がない。
いやあ、やっぱりフットボールは人生だ!そして試合をこんなふうに振り返って考えられるの幸せやなあ。ええ会社に入った。
さあ明日は5連敗中のヴィッセル、鹿島戦です!
ふ、不可能は・・な・・・
三ノ宮駅前を毎日バスで通勤しているんだけれど、これは、ほんとにフェアなの? 神戸市に電話で聞いてみた
4月21日午後2時ごろ、神戸交通局が経営する神戸市バスが、亡くなった2人を含む8名の死傷者を出す事故を起こしました。
被害に合われた方、またご家族の皆さん、心よりご冥福をお祈りします。適切なサポートがありますように。
神戸のなかでも最も利用客が多い、JR三ノ宮のほんの隣で起きた事故。
ぼく、毎日、このバスに乗って会社に通勤しています。
事故があった「JR三ノ宮駅前」の停留所を過ぎ、センター街前 → 神戸市役所前 → 三宮神社で降りる。
普段から神戸市バスの運転手の皆さんは、「サービス業としてどうなの?」と感じるシーンはありますが
運転手として、事故に対する注意は常に怠らない姿勢でお仕事をされていたのではないかなあと感じるところなのですけれど。
14時過ぎに事故が起こり、神戸市交通局の記者会見は17時ごろ、3時間後にはしっかり情報が共有され状況説明も申し分ない印象で、危機管理的な観点でネガティブな印象はありませんでした。
ただ一点、すごく気になることがあります。
運転手であった大野さんという方が第一報の段階から「大野容疑者」と報道されていることです。
これは本当にフェアなんでしょうか?
記者会見のなかで「大野容疑者の事故歴や健康状態、アルコールなどのチェック体制についてご説明をお願いします」という質問に対して、事前に想定されていた質問だったのでしょう、用意される資料に目を落としながら
「直近では平成22年に、乗用車に接触されたという事故を起こしており、それより以前では平成22年の事故の3年前に、えー、いわゆる、乗客が社内で転倒する事故が起きています」
と回答しました。ぼくが観たニュースではこの部分を執拗に流し「過去にも事故を起こしていた、ということですね」という内容のコメントを何度も繰り返しています。そうです、ミ〇ネさんです。昔からずっとそういうところが嫌なんだ。
記者会見のなかで「この事故歴3回という回数は多いものだとは考えておらず~」という趣旨の発言が内藤氏からあったわけですが、ここ、エビデンスをもって説明する必要があるだろうなあと感じます。
マスコミの質問としては、大野さんの傷病歴や勤務態度を探るものが多い印象を持っています。
もう一度。これは、ほんとうにフェアなの?
初動の段階で運転手の大野さんを「容疑者」と断定し、粗を探すような報道を繰り返す一部のマスコミ。嫌気がさしたことと、きちんとフェアな観点で、エビデンスにもとづいて認識したいなあと感じ、調べられる限りの内容を書いておこうと思います。
神戸市バスの運行状況、事故率
神戸市のプレスリリースによると、大野さんはこの日7時10分に最初のバスの運転を行われています。
その後、事故が発生するバスのハンドルを握ったのは12:30、約5時間で5回目の運転でした。
http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/transport/bus/owabi.html
ここから、神戸市に電話で教えていただいたことです。
まず神戸市バスの営業所は神戸市内に6つあり、そのうちの3つが市が管轄する営業所とのこと。
残りに関しては外部に業務委託をしているという運営をされているそうです。
主な委託先として、阪急バス、神姫バスを挙げてくださいました。
神戸市で1日に走るバスは、5786本だということです。
それらを支える運転手さんは、
ぜんぶで778人
とのご回答頂きました。
そして神戸市だけですべてのバスの運行を支えるのは難しいようで、5781本のバスの運行のうち、25.9%の4285本を外部委託しているということです。
おそらく適切な直営運行のマイルストーンを25%に設定しているのかと想像しました。
運転手さんも外部委託です。
778人の運転手のうち、27.8%にあたる561名は外部委託スタッフとのこと。
そして、
2018年に発生した転倒などを含む事故は152件だそうです。
そのうち、神戸市直営バスで起きた事故は71件とのこと。46.7%が神戸市の管轄下で起きています。
今回の事故も、報道のされ方や対応を見る限りこれに該当するのようですね。
本数ベースでも、運転手ベースでも神戸市直営のバスでの事故の比率は高く見えますが、神戸市のバス運行比率は都市部、三宮を中心に偏っていることもあり、そのような路線を神戸市直轄で管理しているという前提にすると
乗客ベースで考えるとむしろ少ない数字になるのではないかと。肌感覚です。
いちばん大事だと思うデータは、
2018年の神戸市全体のバスの事故率は約0.007%
ということです。
この数字、どう読み取りますか? ぼくはめちゃくちゃ少ないなと感じます。
神戸市交通局はじめ、神戸市の日頃からの努力を想像します。そしてそれを支えているのは間違いなく現場の運転手さんです。4月21日、14時までの大野さんじゃないだろうか。
もしも、自分がその立場だったら
もしも、過失か判断がつかない状況で大々的に「容疑者」と顔入り・実名で報道されたとしたら、それを会社が許していると感じる状況であったら、人格的な裏切りに感じます。調査のうえで、大野さんに過失があることがわかった段階で実名を出すことはできなかったのでしょうか。
大野さんは「ブレーキを踏んでいたが、バスが急発進した」と話されていると報道されています。
もし、このことが事実だったとすれば、過失はバスを管理すべき立場の神戸市交通局にあり、名誉毀損甚だしい、と思います。
けれど、尊い命が喪われたことは間違いのない事実。
今後、このような傷つき方をする人が生まれないように、また二次被害ともいえる人が生まれることがないように、神戸市にはしっかりとした検証と経過の報告を行ってほしいと切に願います。
コンテンツマーケティング好きが良質なコンテンツマーケを紹介するよ! そしておいこらそれを続けろよ、という話。
コンテンツマーケティングが好きです。
自社ブログをはじめ、ナレッジやHow toを公開することで、自社サービスの認知向上やブランドイメージの形成を目指すものが好きで、ぼくはそういうものを「コンテンツマーケティング」と呼んでいます。
そしてもうひとつ、良いなあと感じるコンテンツマーケティングでいいなあと思う共通点があります。それは
「自分の言葉で話していること」です。
わかる… わかるんだよ…
企業として文章を書くってことは制約条件もいろいろあるだろうし、当たり障りないことを書いてしまいがち・・
しかし!!!それではもはやコンテンツマーケティングをする意味がないっっっ!!!!!
「ああこれ、社内OKが出るギリギリのらいんこれやったんやろうな」ってことが伝わるCM、おもろいか!?!?!?
そんな社内の軋轢を伝えてくるんじゃないよ!!!
そう、おもしろいコンテンツマーケティングをしている企業は「社員のクリエイティブを信頼している」ことがわかるから好き、というのもあります。
それではぼくが良いなあと思うコンテンツマーケティングをご紹介します。
株式会社LIG
いわずと知れたコンテンツマーケティングの雄。
スタートアップ、もしくは技術系の会社においてコンテンツマーケティングが強力な手段になると証明した会社です。
たとえばこういった、実用的なHow to・・
liginc.co.jpPR企画・アイデアの提案に活用できるプロモーションの事例が豊富なデータベースサイト6選
liginc.co.jp企画書・提案書の書き方を学べる他社事例やテンプレートがあるWebサイトまとめ
(LIGブログがなければ学生だったぼくがデザインの仕事で小銭稼ぎなんて絶対にできませんでしたありがとうございます…)
自社の実績や福利厚生をコンテンツとして紹介できたり・・
liginc.co.jp「LIGってなにをしてる会社なの?」メディア掲載実績をまとめてみた 【Webメディア編】
liginc.co.jp社内のコミュニケーションを円滑にする福利厚生、「ご飯支給制度」についてご紹介します
そして社長のゴウさんのときどきあがるチームの話がいいんだよこれが・・。この記事ほんと好き。
liginc.co.jp万年赤字の宿を3年で見事に立て直したある男の話。ゲストハウスLAMP3周年に寄せて
いわゆる「スター社員」的な存在を一般化させたのもLIG。
ブログがバズったことをきっかけに独立された方も枚挙にいとまがないんじゃないんでしょうか。
さえりさん
そめひこさん
パンと日用品の店 わざわざ
はい、わざわざさんです。
昨年、突如として注目を浴びた個人ECサイトの雄。もはや個人ではないですね。
売り上げが1億円突破、2店舗目のオープンなど、経営的な側面からも注目を集められていますね。
▲ 去年のシュトーレンはわざわざのものをチョイス。美味しかったなあ・・
わざわざ店主の平田さんという方が書かれているのですが、特徴は「ここまでオープンにする?」とこちらが少し心配してしまうぐらいの徹底した透明コンテンツ。
山の上のパン屋に人が集まるわけ
この記事、めちゃくちゃ話題になりなんだこれは!?と思ったら
NHKで取材を受けられた直後のこの記事が立て続けにスマッシュヒット。
来ないでください。
「わざわざの人事制度をぜんぶ見せます」も見せすぎ&共感集まりすぎててヤバかった。一時期ぼくのTL、わざわざに関してを見ない日なかったですもんね。
連載は主にnoteとcakesで。
わざわざ平田さんは「別にコンテンツマーケティングとかやってるわけじゃねーし」という印象です。
「人生に文章を書くことが必要だから」という理由で書かれているんじゃないか、って気がする。もはや共感を超えた何か、です。畏怖に近い感情を持っています。
わざわざでは常に導線を意識して行動をしています。
例えばおいしいものがスーパーに置いてあったとしても、それがおいしいという事実だけで売れることはありません。おいしいことは買わないとわからないので、まず手にとって選んでもらうための行動をしなければなりません。
パッケージを変えたり、ポップを作ったり、毎日SNSを更新して
みなさんにこれはおいしいですよ!これはこんなに素晴らしいんですよ!私たちはこんな取り組みをしていますと、情報発信し、お店でお客様に伝えていく活動を導線と呼んでいます。
それを常に意識しないと、売れるものも売れないというのがわざわざの基本スタンスです。
なぜイベントは失敗したのか?
こういう「おいおい、それ曝け出しちゃっていいの・・?」という文章に山ほど出会えます。
「おら、ちょっとコンテンツマーケやってみろよ」と言いながらいろんな忖度を強要する皆さん、見習ってどうぞ。
Scope
ECサイトのコンテンツ、ということで続けてScopeさんです。
北欧大好きさんからは絶大な人気を誇るScopeですが、特徴は「商品紹介の記事そのものが読み物としておもしろい」ということですよね。
おそらくこちらもマーケティングと思っていないのかもしれません。が、「コンテンツが購入理由になっている」という点で、お手本のようなコンテンツマーケティングかと。
生産の背景がさらっと学べるということもScopeの特徴。
SCOPE / 4040 テーブル
そして… なんていうんだろう… 商品への愛っていうの?
べた褒めはしていない!けれど、ほんとにいいものに見えてくる。個性を語っている。家族を話すときって、こんな口調になるんじゃないかなあと思わせるような語り口。
KAY BOJESEN DENMARK / Monkey
そしてひそかに思うScopeのすごさ、メルマガの編集。
写真もないメルマガなんですけど、文字だけの魅力でクリックしちゃうのすごい。
ひとつの配信で少なくとも3回はクリックしちゃうんですがCV率どないなってるんでしょうね・・
ぜひ、こちらから。
結婚物語。
「兵庫県高砂市、JR宝殿駅前、結婚物語。仲人Tです。」の書き出しからはじまる抱腹絶倒ブログ。すっごい愛がある!
Tさん、めちゃくちゃすごい人なんだろうなあと伝わる記事の数々です。
「なるほど結婚紹介所ビジネスっつーのはこういうものなのか・・」と少し理解できる気持ちになる内容から・・
会員の申し込みを手元で止める仲人(相談所の裏事情編)
「婚活とはなんぞや」の真理を書くその筆舌は「もっと向いてる仕事あるんじゃない!?」の気持ちが去来した後に、一周回って「いやこれが天職ってやつか・・!」と思いなおすわけですが、もはやこれって哲学なんじゃないかとすら感じさせます。
お見合い初回とアプリ初デートは殺られる前に殺れ(男性編)
お見合いとアプリ初デートでは殺られる前に殺れ(女性編)
でもなにより、会員さまへの愛がすっごいんだよなあ。
こんな記事読んだらそりゃ入会したくなるって。
当社の女性会員様(43歳)のお見合い相手を募集します
それにしてもTさんの引き出しの多さはすごくて、そのうえ切れ味抜群、
そして関係各所への配慮も絶対に忘れない。いやあ、なんていうんでしょう「弟子入りしたい…っ!」って思うんですよ。仕事ができるんでしょうね。
Tさん、神戸在住社会人2年目男性です!自分や自分の生活を好きでいられるためのモノを売るtoCの会社で働いています!いい会社です!ぼくは背は低いですが時々男前と言われます!!ぜひなにかご一緒させていただける機会に恵まれればうれしいなあと勝手に思っています。あるいは弟子入りでも!
Goodpacth
今回のブログを書こうと思ったそもそものきっかけは、この会社のコンテンツマーケティングにドハマりしてて、先日「ウチのコンテンツマーケこうやってできてんでー」というツイートを社長がされており、いたく感銘しまして。
「よっしゃちょっとメモ書き程度に書いとくか・・」
程度の軽い気持ちだったんですね。
ほんでいざ書き始めたらですね… 書ける書ける…っ
ああぼく、コンテンツマーケティングが好きなんだなあと。
ということで、Goodpacthさんです。
Goodpacth、「UXデザイン」というサービスを利用するお客さまの体験を様々なパートナーともに考え、つくっていくという事業をされています。
その事業のつくりかたが「まずは良いチームをつくろう」ということからはじめられており、「良いチームをつくるためにわたしたちがやっていること」を丁寧に公開されている記事を見て「これはすごい企業だ・・!」と思ったことがきっかけでした。
これはブログではなく事例なんだけれど、すごいよ。
ぼくはそもそもUXに興味があった、商品ってのは要素のひとつで
大事なのはお客さまの「サービスを利用する全体的な体験」ですよねと思っている、しかしそれに伴う知識はないという人間でしたのでGoodpacthさんのブログは
「UXとはなんぞや、体験ってどないしてデザインするんじゃい」
ということを学べる貴重な内容でした。
ユーザー中心のサービスデザインを体験できる!Goodpatchのデザインプロセスワークショップとは
サービス開発・改善に欠かせない、ユーザビリティテストのやり方【準備〜実施〜分析まで】
最高のデザインを実現するために、絶対に避けては通れない組織のこともたくさん書かれている。
最高のチームの一員になる、入社式のエクスペリエンスデザイン
更新されてたら見ちゃうやつ
ほかにも電通さんがされている電通報はさすがのクオリティですし、
パーソルキャリアさんがされている『未来を変えるプロジェクト』は妥協している記事が少なく本質的、すごくおもしろい。
(なお最近の記事は少し薄いので心配している)
「北欧、暮らしの道具店」さんは、メルマガやSNSはじめ、発信される情報すべてがクオリティが高く熱量高いファンは絶対に発信されるコンテンツから褒めはじめる印象です。
あ、コンテンツマーケティングが好きって気持ちのスタートはほぼ日からかも。
ああ、奥深きコンテンツマーケティングの世界・・
そしておいこらそれを続けろよ
このように、自社のサービスを「価値観と共に伝える」ことが魅力のコンテンツマーケティングですが、各社この世界観をつくり、定期的かつ継続的に発信できるような体制をつくるためには、さまざまな努力が重ねられています。
先ほど少し話に出たのですが、Goodpacth社長の土屋さんが「コンテンツマーケティングをやるために」
という連続ツイートをされており、その内容にいたく感動したんですね。こちらになります。
うちは創業2年目からオウンドメディアをやっていて、初期の認知を作ったのはMEMOPATCHだった。しかも、別にライターを雇っていたわけではなく、コンテンツを書いていたのはインターンやアルバイト。あの時代にUIとかUXのコンテンツを書けるライターはいなかったので
— Nao Tsuchiya / Goodpatch (@tsuchinao83) April 8, 2019
https://twitter.com/tsuchinao83/status/1115052446101921793
”
うちは創業2年目からオウンドメディアをやっていて、初期の認知を作ったのはMEMOPATCHだった。しかも、別にライターを雇っていたわけではなく、コンテンツを書いていたのはインターンやアルバイト。あの時代にUIとかUXのコンテンツを書けるライターはいなかったので重要なのは社内でコンテンツのクオリティーをジャッジできる人材がいるかどうか。マーケットでニーズのある、面白いと思われる記事かどうか。初期は当然自分がやっていたし、2,30人くらいになってきたらメンバーがフィードバックを出す体制になっていた
それでも、50〜100人の急成長フェーズでコンテンツを出す体制が崩れてMEMOPATCHをあまり更新できなくなってしまった時もあり、コンテンツマーケティングの経験者を外部から採用してオウンドメディアをやろうとしたけど、全然うまくいかなかった。
戦略ができていないから出せないとか、コンテンツが溜まっていないから出せないとかでオウンドメディア立ち上げるだけで10ヶ月掛かるという状況になっていた。あの時はマネジメントができていない時期だったなぁ。その後、俺管轄でやり直すと言って巻取り、今の経営企画室チームで1ヶ月ほどでMEMOPATCHをGoodpatch Blogにリニューアルしたのが2年前。
Goodpatch Blogの立ち上げもコンテンツ側は俺と@haaaaaaco とインターンのみで立ち上げた。そこから社内でもコンテンツを作る体制にしていき、この2年でGoodpatch BlogはGoodpatchのブランドを構成する非常に重要なツールとなっている。重要なのは社内でコンテンツを生み出せるチームを作れること
コンテンツマーケティングの経験者を採用しても、マッチするかわからないし、やはりどんなコンテンツが顧客層に刺さるか事業トップが自らジャッジできるようになっていないといけないと思うなー。
インターン達とコンテンツ企画会議でネタを考えている時間がとても楽しかったのだが、今の経営企画室長が入社してきた時に100人を超えた規模の社長がインターン達とブログネタをキャッキャ言いながらディスカッションしている構図を見てヤバイと思ったらしいw
オウンドメディアも結局やり続ける事ができる会社が少ないのでやり続けるだけで、資産になる。もうコツコツ続けるしかないんだよね。コンテンツ発信を続けるだけでも、必ず見てくれる人がいるし、想いや信念が乗ったコンテンツは将来何かに繋がったりする。種を巻き続けるのは大事。
”
まとめると・・・
- 続けよう
- そもそも事業に差別性があることは前提
- とりあえず愚直に続けよう
- 社内でコンテンツ目線をもって「これ、おもろいか」をジャッジできる人材は必要
- コンテンツを発信し続けられる体制が必要(できれば経営判断で必要性が確認されていてほしい)
- おいこら続けろ、続けろっつてんだろ
ということになりますね。個人的な所感としては
1.)「よっしゃコンテンツマーケはじめっぞ!」と言ってみたはいいものの
2.)サービスの差別性にまで突っ込んだ記事がなかなか書けず(もしくは忖度が働き書くことが許されず)
3.)当然の帰結としてPVも伸びずに
4.)「だから意味ないって言ったっしょ」の一言に屈する
みたいなイメージが強くあります。
そんな背景が想像できる自分の会社の最終更新が数年前のURLを見ると本当に悲しくなるよね…。(小声)
ということで、ぼくはコンテンツマーケティングがとても好きです。
商品への感動はもちろんとして、サービスの裏にある価値観にふれることができると、その会社のことを好きになる確率はグッと上がります。
そして「愛着を持ってもらう」というのは、コモディティ化する消費社会において、最強のマーケティングだと思っています。
いろんな困難があるとは思いますが、ぼく自身、ぜひいつかチャレンジしてみたいなあ、と。
それでは今回はこの辺で。
いいなあと思ったコンテンツよくつぶやいてますのでよかったらフォローしてね。
※ ご本人から「おい、勝手に載せるなよ」などがありましたらすぐに消すのでお伝え下さい
クリスチャン・ボルタンスキー展:喪失を読み取る
大阪の国立美術館で開催中の『クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime』へ行きました。
豊島で作成された、様々な人の心臓音を録音した、あれは何なんだろう、音?
「どくんどくどくん」という音がずっと鳴り響く空間で、困惑していました。
困惑を共有したいなあということ、
そして「あの空間はなんだったんだろう」ということを書いておきたいと思います。
喪失の感覚
だれかに使われていたであろうコートが折り重なり、山になっている作品。
174人のスイス人の新聞に掲載されていた「お悔み欄」の写真をブリキ缶に張り付けた作品。
多くの作品を一貫して作品を貫いていたのは
「だれかが存在していた」という、過去の証明、
またそれは、現在においての不在、喪失されたものという感覚を際立たせます。
『ぼた山』も『死んだスイス人の資料』も
「誰かが使っていた(活きていた)ときには意味があったけれど、持ち主が失われてただの物質になっているもの」でした。
意味性が喪われ「物質」となったものを大量に積み重ねるインスタレーションは
大量虐殺、アウシュビッツの写真を想起するような迫力がありました。
なぜボルタンスキーは、あのような ー誤解を恐れずに言えば、グロテスクな作品*1 を作り続けるのだろう?
それを読み解くために重要だと感じるインタビューがありました。
1990年に、京都近代美術館で行われたインタビューです。
私がやろうとしているのは人を直感的に感動させることなのだ。
私の作品はフォーマルなものだと言ったが、そのことは間違いない。しかし結局のところ、私は人々を怯え泣かせたいのだ。このことが私の作品の肯定的な側面である必要はない。私は人々に直感的な感動を与えたいのだ。
もし展覧会を訪れた観衆が「なるほど、これは現代美術の作品だ、ミニマリズムに非常に近いものがある…」などと納得するのであれば、その人はそれ以上に感動することはないだろう。
もしその人がその作品が美術でり現代美術であることを了承しているとすれば、その作品は危険なものではないということなのだ。
私は観衆を動揺さそうとしているのであり、それゆえに観衆を暗い展示室へ導くのだ。
私は人はもはや何も新しいことをなしえないと思うし、何かを発見することが人々(人類、というニュアンスだろうか)にとって重要なこととは思わない。そのかわり人々は、ある非常に親密な体験-漠然としたイメージから生まれる何かを認識すべきなのである。
私の作品は、人々が以前に忘れ去っていった感情の再発見を可能にするある刺戟として作用するに違いない。
私は作品に写真を使用するが、それは写真が、真実として、また存在していた何物かを証明するものとして人々に受け入れられているからである。例えば(私の作品の)翳の部分には、判別しがたいが微かにその反映を見て取れる非常に重要なものがあるのだ。その制作活動の中にしばしば、ショー・ケースの中に置かれたもののような、ある非常にホットな要素が隔離された形で存在するのだ。
京都国立近代美術館 1990.9.22 発行
まとめると、ボルタンスキーの展示は
- ダークな「なにかわからない」という感覚を目的地としている
- 言語的な解釈を自分に与えるような見方はむしろナンセンス
- 喪失を悼むというような、忘れ去りたい感情を思い起こさせる装置だ
であると、あえて解釈をするならば、そのようなものだと本人は語っているのです。
ボルタンスキー、作品の存在がメメントモリだ
ラテン語で「死を悼む」という意味を持つ、メメントモリという言葉。
「その行為の結果」に意味を求めるのではなく
「その行為を行うこと」自体に意味があるとする、また
「喪われたものに思いを馳せる」という点において、ボルタンスキーの作品は、メメントモリであると感じます。
この展示で「これは、なんなんだ?」と立ち尽くしてしまう困惑こそが感受性であり
時々わたしたちは、そのような時間をもつべきなんじゃないか、という気持ちをぼくがあの空間において持った、という一点で
素晴らしい芸術だと感じました。
2019年5月6日まで、大阪の国際美術館で開催中です。
※1 「グロテスクな作品」
この展示に行った友人が「失われる”誰かが生きていた”という事実を丁寧に証明している人だ」と話してくれたのですが、ひどく納得。
一方で、手法的な丁寧さにまで想像力を働かせることはぼくにはできず
ただただ、圧倒的な質量のグロテスクさを感じていたのでした。
気軽な気持ちではふれてはいけないと頑固な価値観を持つぼくは思うのですが、ことボルタンスキーの展示からは
「喪われていく」という、不可逆性をある種、さかのぼるという行為から
静謐な、神聖さえ感じる圧倒的な質量のグロテスクさを纏うのだと思いました。
国籍を超えたワークショップではどのようなことが起きるのか、という話。
どーもどーもだいぶご無沙汰になってしまいました。社会人です。春ですね。
友人がミャンマーの子どもたちを日本に招き、2泊3日、日本を体験しようというプログラムをつくってくれたのですが
プログラムの一つ、ワークショップのお手伝いをさせていただく機会に恵まれました。
その時間がなかなかに感動的だったので、備忘録を残しておこうと思います。
前提条件はこんな感じ。
- 2泊3日の2日目
- ミャンマーの子どもたちは13歳~16歳(だったはず)
- 人権問題をテーマにするNGOに保護されるような背景がある子どもたちが参加者
- 日本人の中学3年生、高校1年生の参加者も多数
- 直前にソニーと東京工業大学の先端技術研究の視察などのプログラム
- 通訳あり、いちばん多いときで6グループになるためそれぞれのグループ+全体通訳で7人
どんなプログラムだったか
「自分たちの社会と向き合うワークショップ」と題名がついた時間でした。
中高生にとって(わたしたちにとっても)自分がどのような存在のなかで生きていて
それらを言葉として認識する=わたしたちはどのような存在(社会)の中で生きているか、を考える。
なかなかない、気づきと言語化の機会なんじゃないかと思います。
まず言語化のために、自分の身の回りにある課題や、悲しいと感じることをポストイットに書き出しました。
ここで日本の子どもたちと、ミャンマーの子どもたちのそれぞれの特徴がありました。
日本の子どもたちは比較的、大きいことから小さなことまですらすらと書くことができます。
たとえば、「テストがだるい」と、グループ内で「お前そんなこと書くなよ(笑)」と
少し笑いが起きるようなトピックスを書いた直後に
「ジェンダー問題」と書いてみる、といったみたいに。
うん、これはこれで優秀。しっかりニュースや授業で拾った言葉を
ここで書き出すことができるんだね。
一方で、ミャンマーの子どもたちは
日本の子どもたちと比較し、ひとつひとつを丁寧に書き出している印象がありました。
いちばんの違いは、身内へのウケ狙いのような書き方を誰もしていなかったこと。
ミャンマーから来たみんな、自然と「個人ワーク」みたいなモードにすっと入っていけている印象。
「わたしの言葉」で話す
ワークショップはすすみ、自分を取り囲む社会を課題を通じて言語化してみる挑戦をしたあと
「わたしはなにに心が痛むだろう」というテーマを、オープンセンテンスという手法で語りました。
前段の時間では「社会」に拡げた意識を、この時間で、自分に戻すイメージ。
ここでミャンマーの子どもたちが語り始めた「自分の痛み」に感動しました。
最初に紙に書きだした「社会の問題」と「自分の心の痛み」が、まったく同じものなのです。
たとえば「麻薬をつかっている」と書いた子の語りは
「自分より年下の子が、なにも知らずに薬を売ることに加担している。
大きくなったら、そういう悪い奴らと付き合うことになる。
麻薬を使う人がいる、ということに心が痛む」
といった内容でした。
一方で、社会の問題に「ジェンダー」や「経済格差」と書いた日本の子どもたちは
「部活の陸上部で後輩がわたしより速く走っている」といった内容。
ぼくは教育にかかわっているわけではないのでまったくわからないけれど
「社会の問題を書いてください」と言われ、すらすらと書き出すこと、優秀なんだと思う。
けれど、その認識している問題と自分の心が痛むことが大きく違う=自分ごとではない。
ミャンマーの子どもたちは、「社会の問題」と「自分の心の痛み」が
まったくもって同じ内容だった。
認識している社会課題を、自分の生活にかかわる問題だと認識しているということは
そのことを考えるときの主体は自分になるのだと感じますし
自分の人生を決めるシーンで「なにを自分ごとに感じているか」は大きな意味がある。
自分ごとに感じている痛みが、社会の課題と大きく重なる子がたくさんいるのなら
たとえいま、問題は山積しているのだとしても、そのことを自分の痛みとし
取り組む若者が多い社会なんて・・・
希望しかないじゃないか。
ミャンマーで、そんな子がマジョリティなのかどうかまではわからないけれど
ぼくがワークショップで一緒させてもらったのは、社会の希望のような子どもたちだったなあと感じます。
ワークショップの設計でお悩みがある方、ぜひご相談ください
はじめて来る日本でいろんな体験をし、いろんなインプットがあり
そのうえで、自分の考えを言葉にし、ともに時間を過ごす国籍が違う友人の
人格的なストーリーにふれる、そんな時間に立ち会えたのはとても幸福でした。
ファシリテーターや全体の設計ではいったわけではまったくなかったのだけれど
はじめてふれるものや、わけがわからないけれど大切なもの
そういう場所や環境を「これはなんなんだろう」と考える時間。
自分じゃない他者の人格的なストーリーにふれる時間。
そういう時間をつくるには、より良いものにするためには、どうすればいいか?
このこと、考える機会があれば嬉しいなあと思いました。
大学時代はお金を頂戴してワークショップの設計~ファシリテーターを任せていただいたことが何度かあります。
そのときは北海道に住んでいて、ぼくの活動や人間性を信頼してくれる方から
そのような機会を頂戴していたわけですが
いま住んでいる環境でも、そんな機会に恵まれればいいなあと思いつつ。
- 場所づくりの全体の設計、主にコミュニケーションの部分
- 大規模のワークショップを行う際の、グループ単位のファシリテーター
- イベントのなかで、参加者がゆっくり話すような時間をつくりたいけれどどうすればいいかわからない
そんなニーズがあれば、ぜひお気軽にご相談ください。
(★を@にして)
のまさん、翔馬くん、機会をくれてありがとう。
この時間をどんな気持ちで、どうやってつくったかも、奇跡のようなストーリーだよね。
地図から考える少し先の未来はどんなふうに見えるだろう?
歴史的に見た「地図の価値」
▲ ヘカタイオスの世界地図。測量をもとにつくられた「世界を示す地図」はこれがはじめてだったらしいです