友人Mちゃんの話と、苦しみに向ける社会性に救われることがあるんじゃないかなあ、という話。

 

 

とっても尊敬している友人がいるのですが、その友人は

ネグレクト / 保護施設 / 里親 という環境のなかで育ってきたという友人で、

けれど、その環境で育ったから尊敬しているわけではまったくなく、

いま、友人として見せてもらうその普段の姿に尊敬の念を隠しきれないのですが、

彼女が育った背景をかんがえるとき、どれだけの痛みと苦しいを抱えてきたのだろうということは、もちろん、感じるわけでございます。

 

 

彼女はいま、じぶんが当事者であった

「選択できない、生まれながらの環境により選択肢を剥奪されてしまう子どもたち」に、

自分だからできることはないか、そして、

そのことを生みだす社会背景自体に働きかけようと日々奮闘しています。

 

www.huffingtonpost.jp

その友人が関わるプロジェクト

 

けれど、やっぱり、選択することができない環境から抜け出せず、

苦しみを苦しみと認知できぬまま、自己防御を繰り返しながら、

自分と、愛情むけてくれる人を傷つけながら育った方もたくさんいらっしゃったのだろうと想像するとともに、

なにが、彼女と、彼女でないひとたちを分けたのだろうと、

そんなことを考えていましたので、勢いのままPCに向かっているエントリです。

 

 

「社会性 / 当事者性」

 

彼女、ここでは、Mちゃんとよばせてもらいますね。

Mちゃんから感じるのは「当事者性と社会性、両方のまなざし」だなあと感じます

 

(これは「ソーシャルワーカーとして必要な資質」として言語化されますね。
こちらのエントリに、そんな話を書きました)。

 

taaaaaaaaa.hatenablog.com

 

 

大学になってから活動をはじめ様々な人に出会ってきましたが、

「過去を清算する」ために、活動などに没入するタイプの人達も多かったなあと思うのですね。

ぜーんっぜん悪いことではないと思いますが、その動機だと、目的地点は

「じぶんの心の回復」みたいなところに向かっていくなあと思います。

 

 

いっぽうで、Mちゃんは(もしかしたら前途したような時期もあったのかもしれませんが)

「当事者だったからできることがあるはずだ」と、じぶんを、いつも奮い立たせている印象があります。

この精神構造って、おそらく「当事者性」をつねに持ちながら課題に向かっていくMさんの姿勢を支えているのだと思うのですね。

 

 

忘れてしまうのは、楽なことです。

けれど、いつまでもじぶんを「当事者として」と位置づけつづけるという精神運動、

ほんで、その精神を支える心の強さにため息がでます。

 

そして、この「当事者性」=「苦しかった」に溺れることなく

「当事者だったから、できることが」という心を持ち続けながら、日々を過ごす姿、

課題解決を志す姿、これはそのまま「社会性」ですね。

 

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苦しみを客観視することで獲得した当事者性、そして、日々を課題解決に投じる社会性、これ、ほんとうに、奇跡だと思うのです。いくら言葉を並べても足りないです。

 

「Mちゃんと友人でいれること」は、ぼくの人生に、大げさでなくこれ以上ないプレゼントですし、そんな友人がいる自分の人生を喜びたいです。

いてくれてありがとう、ほんとにそう思います。

ながい人生、これからも苦しいも日々も笑いあえればよいなあと感じる次第であります。

 

 

Mちゃんの姿は「苦しい」への処方箋になると思う

 

taaaaaaaaa.hatenablog.com

 

このエントリでも書いたのですが、Mちゃんの姿は

「どこに苦しむかを選択している」ということ実践しているこれ以上ないモデルケースだと思うのです。

 

きっと、生まれた境遇や、もらえなかったもの、たくさんあったであろう見て見ぬふりや、一層苦しく感じただろう同調圧力

こういうものに、苦しみのフォーカスをあてることも、簡単だったと思います。

 

けれどMちゃんは、そうはしなかった。

 

もしかしたら、自分と同じような境遇で苦しんでいる子がいるかもしれないこと、

そのような子どもたちを救い出すことができない社会環境に苦しむことを決めたのだと、そう感じるのです。

 

いま苦しいみんな、その苦しみは、

もしかすると、誰かの苦しいを救うかもしれない。

キレイゴトかもしれませんが、そんなふうに感じます。

 

けれど、Mちゃんのケースは、ほんとうに奇跡のような偶然がかさなり起きたのだと思います。

たくさんの学びの機会、自己を客観視する機会、そのような機会も、確実にMちゃんのいまを支えているものだと、話していて感じます。

 

けれど、過去の経験を、

「当事者性を持ちながら、社会性に変換しよう」と決め、そのように毎日を過ごしているのも、Mちゃんが行ってきた選択です。

 

これは、子どもだけには限りません。

苦しみの只中にある人が、どうか、自己を客観視できる語りなおしの機会に恵まれますように。

そのことができる、優しい耳に恵まれますように。

そして、許されるのであれば、そんな奇跡を起こせる耳をぼくがどうか持ち続けることができますように。

 

 

苦しいの横にいれること、こんなにも名誉なことはないと思うなあ。

 

こんかいは以上となります。〈27分〉

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追記:本人から「noteのリンクを貼ってくれ!」とのことなので、しゃーなし…(笑)

ぼくもそうですが、なにかへの当事者になっている人間って、まいにちが手探りで、これでいいのかなあって悩みの連続です。そのなかでしぼりだすような言葉に、コメントや、「読んだよ!」って伝えてくださること、とても嬉しいです!

読んでやってください。

note.mu