「社会のために!の罠」の話。

 

 

Facebook初期のエピソードで、目ん玉とび出るぐらいの額で買収案が持ち上がって、

取締役会の皆さんは「マーク!売ろう!」と説き伏せようと試みたけれど、

「いや、世界とユーザーをもっとつなぐことができる、それがぼくの使命だ」

ザッカーバーグ氏は取締役のみなさんとケンカした、そして現在のFacebookここにアリ、というお話が大好きなのですが、

「それに比べて日本の若いベンチャーはバイアウトばかり狙いやがって…」

みたいなぼやきをスタートアップを注視する大人のみなさんからよく聞こえてくるたびに

「ほんならあんたがやってみなされや…」

と思う毎回で、けれどまあ確かにマーク・ザッカーバーグの信念はすごいなあと、

大人をぼやかさせる皆さんとはなにが違うのかなあ…

なんて考えていましてのエントリーでございます。ご笑覧ください。

 

 

自分のためにやっているのか、他者性のためにやっているのか

 

ぼく、普段は地域計画などを学ぶ学生なのですが

地域系の活動は参加のハードルが低く、暇を持て余した定年退職おじいさんなどを代表に

「わたし、いいことやってます!」の気持ちに対してなんの疑いもない皆々さんをよく目にするのですね。

 

昨今は「地域活性化」は一種バブル、流行のようなところもあり、学生なんかもよく参加されているのですが、

みんな口を揃えて「イイコト」を言います。

 

でーも、たとえば活動なんかをご一緒させてもらって、なにかを決める場面で

「誰のためにしているのか?」の本質が見えてくるなあと感じます。

 

 

「誰のためにやっているのか?」は、グラデーションで、

公益性や自己犠牲を過剰に求められて、「自分の糧にならない」構造の場所はよろしくない、搾取フィールドなわけで、はやく離れた方が良いですが、

 

「社会のために」と言いつつ、けれど、ほんとのところは

「自分のためでしかない」そこにはとても気持ち悪い乖離感があります。

 

それってもはや、嘘ですからね。無意識の嘘。

 

 

なにかをするシーンで、求められるものが完全なボランタリーベースなときには、

なんのスキルも必要ないですが、

目標をじぶん(たち)で決め、その到達を目指していくのなら何らかのスキルが必要なシーンがほとんどですね。

 

 

スキルと公益性の意識をマトリクスにしてみた

 

前途の「行動と動機に公益性の意識があるか?」と、このスキルの有無をかねあわすと、こんなマトリクスになるかなあと思います。

 

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Facebookは極端な例ですが、やはり公益性の意識といいますか

強烈な問題意識や、実現したいことがあり、そのうえで必要なスキルが兼ね備わっていることは、暮らしを良くし、社会を良くしていくサービスの提供者になることや、企業というカタチでなくとも、個人としてそんな存在ことに必要不可欠なのではないかと感じます。

 

一方で、図でいうと左上ですね。こちらは「スキルはあるけれど、気持ちは(実は)そこまで」というケース、

「バイアウト狙い」などと揶揄されるサービスやベンチャーはここにあたるのかなあと思いますし、

ああ、解散していくバンドなどもここな気がしますね。

ぼくは、ここ、ぜんぜん良いと思います。そういったスキルを包括して有益なリソースとして取り扱えるようになることが、エコシステムなどなのではないかと感じます。

スキルがあって、行動しているわけですしね。

 

右下、「気持ちはあるけれどスキルはない」ケース、これは学生団体などがあたるでしょうか。自己研鑽の場所としてとてもいいと思います。気持ちは多分にあるだけに、頑にならないようにしたいですね。

 

そして… 左下です。

– 暇を持て余し地域活動に従事するおじいちゃん(実は褒められたいだけ)

– コンプレックスと闘う場所として公益性がある場所を選んだ皆々さん

 

言えたこっちゃありませんが、一度、考えてみるのはいいと思います。

「ほんとに欲しいものは、なんなんだろう?」って。

 

そして「わたし、良いことしてる!」の罠に陥りやすいのも、このセグメントの方々の特徴であると感じます。

 

みなさんは、建前上は「社会を良くしたい!」と口にするわけですから、

適切な方法論について、アドバイスや進路変更の提案などをする方々もいらっしゃいます。こういうことをしてくださる方は、優しい方が多いです

(誰かに偉そうに話したいひとが言っている、もはや地獄絵図ケースもあります…)。

 

しかし、左下のみなさんの目的は、まあ言ってしまえば「褒められたい!」ですから、

絶対に聞く耳をもちません。むしろ「なんであの人は分かってくれないんだ!」などと不満げにつぶやく、そんな反応になりがちですよねえ…

 

…まあ、なにも言いませんが、きっと、苦しくないですか?

スキルも忍耐もなにもないのに、ほんとに欲しいのは自己肯定感とかなのに、

「社会を良くしたいんです!」みたいなこと言うこと…

 

 

まあけど安心してください、

最初はだれしもが、ゼロ / ゼロ からはじまっているわけですから。

自分に問いかけ続けて、もしくはスキルを身につけて…

それが人生ですものね。

 

 

けれど、体感として、

「社会のために!」とは言いつつ、自分のコンプレックスや褒められたい欲求を満たすために、

地域活動やNPOのまわりに居座り続ける人がいます。

 

ほんとにスキルがついてくると、必ずきちんと必要とされますし、

そこでどう成果を出そうかということに集中していくわけですから、

きっと言いながら感じてるその気持ち悪さもなくなってくると思います。

そしてこれ、自分に対しても言ってます。

正義感の濫用は暴力的だよなあ。

 

どうかみなさん、はやく、苦しいかもしれませんが

自分との対話の時間を持てるといいなあ… と感じます。

 

 

 

今回は以上となります。<25分>

 

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