7年目の三陸と、友達でいれることが嬉しいという話。

 

 

ご縁があり、2011年3月11日に起きた東日本大震災から、

 

最近は1年に1度程のペースになってしまっていますが、気仙沼へ遊びにかせてもらっています。

 

東日本大震災が起きて、2011年6月に設置された復興庁ならびに東日本大震災復興法では、2016年3月までを集中復興期間とし、

震災5年目までに、防波堤などを含めた基本インフラの道筋を示し、現在は民間・NPOを含め、復興のフェーズから「新しい東北の創造」とう言葉で表現される、

地方創生や地域活性化といった日本各地で抱える問題として取り組んでいくというロードマップが示されていました。

 

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復興庁 | 復興の現状と取組

 

 

ぼくは、津波並びに火災での被害が深刻であった気仙沼に友人がおり、「三陸へ遊びに行く」というときは、「気仙沼へ遊びにいく」ということが多いのですが、

東日本大震災から7年がたった気仙沼、どんな様子だったのか、書き残して置こうと思います。

 

 

ハード面では新しい街の輪郭が見えてきた(気がする)

 

震災が起きてから、津波でぐちゃぐちゃになり、車輌など通れるはずのない道路に、

まずは避難物資などの供給ラインとして自衛隊が道路を建設しました。このスピードは、みなさん口をそろえて「すごく早かった」とおっしゃいます。

 

その後、瓦礫などが散乱する箇所を、分別などしながら更地にし、地面自体を「かさ上げ」し、その上に街づくり計画などに基づき、ハコモノ ーお家や事業所など、を建設していく、というのが津波で直接的なダメージを受けた地域の基本的な流れなのかと感じています。

 

かさ上げ工事は、このように行われています。

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奥にある、土のかたまりのようなものが、かさ上げされた場所。気仙沼では場所によっては違うでしょうが、約7mほど、土を盛り、建物などを立てていくのはその作業が終わってから… というのが基本的なようです。

 

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かさ上げをしていないと、地盤沈下、またかさ上げしているところとそうでないところの相対差などにより、降った雨がこのように溜まり続けてしまったりしています。

 

また、気仙沼は海に囲まれ、船の発着場などがある内湾が賑わいの中心ですが、その場所も津波でほとんどの建物が流されてしまっていました。

その場所についても、新しい建物が建ち、どのように活用していくかという議論もすすんでいるようです。

 

 

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▲ 奥の赤い骨組みが、船の発着場「エースポート」。ここにいろんなテナントなどはいるそう

 

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直ぐ側では、3月11日にあわせて無料で炊き出しが行われていました。

お隣に、渡辺謙さんがプロデュースされたカフェ「K-Port」があります。

 

 

たまたまはいったごはん屋さんで「この日にあわせて無料で提供させてもらってます!」みたいなことが数度あり、そんなんやめてくださいと大変恐縮の気持ちに何度もなりました…

こんなことも、7年目の変化として印象に残りました。

 

これは、建設中の魚市場だそう。

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どうやら、日本最大面積の水揚げ場+市場機能が併設された施設ができるようで、その大きさに圧倒されてしまいました。

 

ハコモノができる」ということは、

「その土地をどのように活用していくか」という議論がなされており、(成功するかどうかは別にしても)未来を見据えた議論をし、その土地をどのように使っていくかというロードマップがあるということでしょう。

また、かさ上げなど、一次復興というべき対処は完了しているから、そこに建物が立つということ。

産業やハードの面では、気仙沼では、大きな変化、前進?が、あったなあと感じます。

 

個人のストーリーで

 

ぼくにとって、三陸は、「友人が暮らす場所」です。

それも、とびっきりに良い友人が暮らす場所、です。

 

なので、どんなにハード面の前進があったとしても、

友人のみんなが、取り残されていたり、孤独感を感じていたり、

そんな月日の経ちかたは、望んでいませんし、「復興」とは呼びたくないなあと思います。

 

幸い、ぼくの友人は、いろいろあるけれど、元気に暮らしています。

話せないこともきっとたくさん含んで、けれど、笑顔で話してくれています。

 

敬愛する鷲田清一さんが、心理学者である赤坂憲雄さんと、東北についての語らいのなかで、こんなことをおっしゃられていました。

 

 

じっと、見守ってくれている人がいるということが、人をいかに勇気づけるかということは、被災の現場だけでなく、たとえばこどもがはじめて幼稚園に行ったときの情景にも見られることです。〜
わたしたちが(東北に、そこにいる方々に)できることは、この見守りを続けること、心を届け続けるということです。

『東北の震災と想像力 われわれは何を背負わされたのか』 鷲田清一 × 赤坂憲雄
2012.3.8 初版 講談社出版

 

「街がこんなふうになっていました」という文脈でなく、「あの人にとって」という文脈で、この出来事を語りたい自分がいます。

けれど、それを不用意にするには、かかわり方も、心のよせかたも、人間的にも、どこまでも未熟で、こんなふうに客観的な文章を書いてお茶を濁してしまい、

鷲田さんの「見ることが力」という言葉に、なにもできない無力さにすがってしまうぼくです。

この文章を書くにもどきどきしてしまいます。

 

 

大好きな気仙沼に行ったら会えるひとりの社長が、早期復旧を宿の経営者として支えられ続け、昨年その宿を閉館し、いまは、仮設住宅から移り住む災害復興住宅に暮らしの場所を移されました。

 

神戸の震災でも、15年目頃からいまにかけて、コミュニティが瓦解しそのまま孤独死されるご年配の方がとても多かったのですが、

三陸の災害復興住宅でも、同じことが起こり始めていることを教えてくれました。

 

そんな、様々な支援、また関わり合いから「掬われていない」方がたくさんいるのだろうなあ。

 

 

ぼくは、いつでも、全力で三陸に関わることができれば嬉しいです、その準備をしていますから!


いつも笑顔で向かえてくれる友人たち、人生の先輩のみなさん、ありがとう(^_^)

7年間、大切に積み重ねてきた人生が流され、みなさんはそれ自体を「幸運なこと」と口をそろえるけれど、新たなスタートから走りつづけてこられた7年だったと思います。

 

そりゃあ、いろんなものが溜まっちゃうよ〜

どうか、言葉をこぼしながら、自分だけの2本の足で踏ん張らなくてもいいから、

 

 

ぼくも、もっともっと一助になれるように、力をつけたいなあと思っています。

いつも、日常を生きてくださって、ありがとう!

 

横にいさせてくださいね、今年もどうぞよろしくお願いします。

 

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