豪雨災害について感じていること

 
2011年3月に、大阪大学で行われた卒業式、
当時、学長であった哲学者・鷲田清一教授は、一通りの -文字数として数えると
240文字ほどの祝辞をを述べた後、
 
「途方もない災害が起こってしまいました」
 
との言葉で、卒業式のスピーチをはじめました。
 
そして、平成30年7月豪雨災害です。
原発の問題の有無や、テレビで流れる「亡くなった方」の数字の桁こそ違えど、
 
豪雨災害としては、「未曽有の」災害であった点、そして
これからの対策を根本的に見直さなければいけないという点、
 
そしてなにより、
近しい人を亡くされた痛切さが伝わってくるという点で、
今回の2018年7月豪雨、ぼくは、3.11と同質のものを感じています。
また、途方もない災害が起こってしまいました。
 
 
今回の豪雨、ぼくは降水量としては3番目に多かった神戸に住んでおり
確かにいままでにない雨の降りかたでしたし、
加えて、徒歩にして500mほどの場所で土砂崩れが発生していましたが、
それでも、「災害に巻きこまれつつある」という意識は希薄でした。
「雨が降っている」というのは日常の範囲の現象だもんなあ。
 
 
NHK広島の人が、こんなことを書いています。

www3.nhk.or.jp

" 私たち記者は、災害が予想される際に、いつも「警戒」や「早めの避難」を呼びかける原稿を書いています。しかし、私たちの「日常」がいつ、「災害」に変わるのかを見極めることはとてもむずかしいと感じます。 "

 

 
広島でも「当事者として行動する」ことは難しかったようです。
 
被害地域が広域であったこと、下手に現地取材を行えば自身も被害者になってしまうマスコミのリスクに加え、
もしかすると「雨の災害」だと、心のどこかでラベリングをしていた(し続けている)人も多くいたんじゃないかなあ。
 
現在は、豪雨災害のニュース一色、現地からの報道ばかり、といった感じですけれど
実際の雨が降っているときの映像は、ほとんどが京都の嵐山だったり
神戸大学の裏山のものばかりだった印象です。
 
それらのニュースをみて感じたことがあったので、書いておきます。
 
 

「家族を失くした姿」を報道するマスコミは悪なんだろうか?

 
取り返しつつあるように、豪雨災害一色となったニュースの中で
「ご家族を亡くされた方」に密着しているものが、目立ちます。
 
ご家族を亡くしたお父さんの後ろには、画面を通じて確認できただけで
お父さんの後を追うように、20人ぐらいの「マスコミの人」がいました。
 
よく「心ないマスコミが!」という意見は目にするけれど、ぼくは今回
少し別のことを、その映像から感じました。
 
「このお父さんは、ひとりでこの時間を過ごすことにならなくてよかったんじゃないか?」
 
 
ご家族を亡くされた苦しみ。
自宅が浸水し、心の支えを失ったなか、  
いったいなにを支えに生活を取り戻していくんでしょう。
想像するだけで胸が引き裂かれそうになるよ。
 
そんな苦しみと喪失感のなか、あのテレビに写ったお父さんが
「だれにも見向きもされず、ひとり」だったら、どうだったのだろう。
 
もちろん、痛みからの回復の過程において、
「ひとりで悼む」という時間は、きっと、必要になるでしょう。
そのような時間が、最初に必要なひともいるでしょう。
だから一部の人たちから「クソマスコミが!」と呼ばれるのでしょう。
 
 
けれど、人間みんなが「苦しみをひとりで耐え忍ぶ」ことをできるように
デザインされているとは思えないのです。
 
ぼくだったら、どうだろう。
家族を失くし、立ち向かわなければいけない現実は山積み…
 
そんなときに、それがたとえ気遣いからでの「ひとり」であったとしても
その孤独に耐えきれないのではないか?
 
そんなふうに感じます。きっと気が狂ってしまうよ。
 
カメラをかつぎ、マイクを握ったマスコミのみなさんではあるけれど、
「自分ではない他者」に囲まれながら、
これもまた回復の過程において必要な「言葉にする」ことを
きっと、しぼりだすように、されているお父さん。
 
きっとあの映像を、ぼくらが痛みへの共感を持ちながら
受け止めることができるか、それを試されているんじゃないかなあと思うよ。
 
ああ、痛い体験ですね。強くなろう。
3.11、多くの人がそうできたように、また今回も。
 
 

みんなへ

 
そう、3.11です。ぼくはニュースで水につかった西日本の街を見るたびに、三陸を思い出します。
みんな、元気かい? ぼくでもそうなんだから、みんなはきっと
ぼく以上に思い出すよなあ。
 
 
しんどかったら、テレビ、消していいからな。
逃げているように思わないで。
 
あれだけの傷をうけてまだ7年です、
「みんなが生活してくれている」それは奇蹟だし、
その事実が、関西を救うよ。もう救われてる。
みんなが絶望していないんだよ。それは、みなさんが、
暮らしている、その事実がおっきいと思うよ。
 
すっごいワガママを言うと、
笑って生活してくれていたら、もっと勇気づけられる!
 
「ただ、いてくれること」そのことがどれだけぼくらを救うか。です。
いつもありがとう(^_^)
 
みなさんがそういてくれるんだもの。
きっと、ぼくらにできないはずはない。
 
 
なにもできない自分を責めてしまうみんなへ。
 
大丈夫。役割がくるよ。
倉敷市の市役所職員の友達がいるんだけれど、
もう、寝る暇もなく働いてるって。
いま、できることがある人が、必死にやってくれてるから
そんな皆さんに敬意を持って過ごせたらいいよなあ。
 
そして、それが原因で心を痛めるかもしれないけれど、
「関心」が向けられていること、
さっきのお父さんの話のように、間違いなく支えになるから!
 
 
FIGHT BACK!
それぞれの立場で、穏やかに、闘おうな。
 
みんなの状況が少しでも良くなっていきますように。

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