国籍を超えたワークショップではどのようなことが起きるのか、という話。
どーもどーもだいぶご無沙汰になってしまいました。社会人です。春ですね。
友人がミャンマーの子どもたちを日本に招き、2泊3日、日本を体験しようというプログラムをつくってくれたのですが
プログラムの一つ、ワークショップのお手伝いをさせていただく機会に恵まれました。
その時間がなかなかに感動的だったので、備忘録を残しておこうと思います。
前提条件はこんな感じ。
- 2泊3日の2日目
- ミャンマーの子どもたちは13歳~16歳(だったはず)
- 人権問題をテーマにするNGOに保護されるような背景がある子どもたちが参加者
- 日本人の中学3年生、高校1年生の参加者も多数
- 直前にソニーと東京工業大学の先端技術研究の視察などのプログラム
- 通訳あり、いちばん多いときで6グループになるためそれぞれのグループ+全体通訳で7人
どんなプログラムだったか
「自分たちの社会と向き合うワークショップ」と題名がついた時間でした。
中高生にとって(わたしたちにとっても)自分がどのような存在のなかで生きていて
それらを言葉として認識する=わたしたちはどのような存在(社会)の中で生きているか、を考える。
なかなかない、気づきと言語化の機会なんじゃないかと思います。
まず言語化のために、自分の身の回りにある課題や、悲しいと感じることをポストイットに書き出しました。
ここで日本の子どもたちと、ミャンマーの子どもたちのそれぞれの特徴がありました。
日本の子どもたちは比較的、大きいことから小さなことまですらすらと書くことができます。
たとえば、「テストがだるい」と、グループ内で「お前そんなこと書くなよ(笑)」と
少し笑いが起きるようなトピックスを書いた直後に
「ジェンダー問題」と書いてみる、といったみたいに。
うん、これはこれで優秀。しっかりニュースや授業で拾った言葉を
ここで書き出すことができるんだね。
一方で、ミャンマーの子どもたちは
日本の子どもたちと比較し、ひとつひとつを丁寧に書き出している印象がありました。
いちばんの違いは、身内へのウケ狙いのような書き方を誰もしていなかったこと。
ミャンマーから来たみんな、自然と「個人ワーク」みたいなモードにすっと入っていけている印象。
「わたしの言葉」で話す
ワークショップはすすみ、自分を取り囲む社会を課題を通じて言語化してみる挑戦をしたあと
「わたしはなにに心が痛むだろう」というテーマを、オープンセンテンスという手法で語りました。
前段の時間では「社会」に拡げた意識を、この時間で、自分に戻すイメージ。
ここでミャンマーの子どもたちが語り始めた「自分の痛み」に感動しました。
最初に紙に書きだした「社会の問題」と「自分の心の痛み」が、まったく同じものなのです。
たとえば「麻薬をつかっている」と書いた子の語りは
「自分より年下の子が、なにも知らずに薬を売ることに加担している。
大きくなったら、そういう悪い奴らと付き合うことになる。
麻薬を使う人がいる、ということに心が痛む」
といった内容でした。
一方で、社会の問題に「ジェンダー」や「経済格差」と書いた日本の子どもたちは
「部活の陸上部で後輩がわたしより速く走っている」といった内容。
ぼくは教育にかかわっているわけではないのでまったくわからないけれど
「社会の問題を書いてください」と言われ、すらすらと書き出すこと、優秀なんだと思う。
けれど、その認識している問題と自分の心が痛むことが大きく違う=自分ごとではない。
ミャンマーの子どもたちは、「社会の問題」と「自分の心の痛み」が
まったくもって同じ内容だった。
認識している社会課題を、自分の生活にかかわる問題だと認識しているということは
そのことを考えるときの主体は自分になるのだと感じますし
自分の人生を決めるシーンで「なにを自分ごとに感じているか」は大きな意味がある。
自分ごとに感じている痛みが、社会の課題と大きく重なる子がたくさんいるのなら
たとえいま、問題は山積しているのだとしても、そのことを自分の痛みとし
取り組む若者が多い社会なんて・・・
希望しかないじゃないか。
ミャンマーで、そんな子がマジョリティなのかどうかまではわからないけれど
ぼくがワークショップで一緒させてもらったのは、社会の希望のような子どもたちだったなあと感じます。
ワークショップの設計でお悩みがある方、ぜひご相談ください
はじめて来る日本でいろんな体験をし、いろんなインプットがあり
そのうえで、自分の考えを言葉にし、ともに時間を過ごす国籍が違う友人の
人格的なストーリーにふれる、そんな時間に立ち会えたのはとても幸福でした。
ファシリテーターや全体の設計ではいったわけではまったくなかったのだけれど
はじめてふれるものや、わけがわからないけれど大切なもの
そういう場所や環境を「これはなんなんだろう」と考える時間。
自分じゃない他者の人格的なストーリーにふれる時間。
そういう時間をつくるには、より良いものにするためには、どうすればいいか?
このこと、考える機会があれば嬉しいなあと思いました。
大学時代はお金を頂戴してワークショップの設計~ファシリテーターを任せていただいたことが何度かあります。
そのときは北海道に住んでいて、ぼくの活動や人間性を信頼してくれる方から
そのような機会を頂戴していたわけですが
いま住んでいる環境でも、そんな機会に恵まれればいいなあと思いつつ。
- 場所づくりの全体の設計、主にコミュニケーションの部分
- 大規模のワークショップを行う際の、グループ単位のファシリテーター
- イベントのなかで、参加者がゆっくり話すような時間をつくりたいけれどどうすればいいかわからない
そんなニーズがあれば、ぜひお気軽にご相談ください。
(★を@にして)
のまさん、翔馬くん、機会をくれてありがとう。
この時間をどんな気持ちで、どうやってつくったかも、奇跡のようなストーリーだよね。