苦しいを、選ぼう。という話と、コミュニティの希望の話
看護師さん一年目の苦しいを聞いて感じたこと走り書きなんですが、
まあ職場に、ハラスメント的なコミュニケーションの型が身についてる人がいるそうで…
「できないことを個人の資質に還元する」や、「きちんとできているかを厳しい目で精査する」だったり、
「ストレスフリーな環境であれば本来発揮できるであろうパフォーマンス」を剥奪している人がいらっしゃるそうなんですね。
この話を聞いて思ったんですが、看護や介護など、人間関係が固定されている=閉じている空間で起きやすい問題なんだろうなあと感じた次第で、
その人はたちの悪いことに「女同士のコミュニケーション」で、経験をつかって殴ってくると、まあ
「あいつできない奴でしょ? だからわたしが指導してあげてるのよ〜」
という暴力を魔法のようにつかえる方なようですね。
このことについて思うことを「チームとして」と「個人として」の話に分けて、感じることを書いていこうと思います。
チームとして、思うこと
ええと、まずこのような振る舞いはしかるべき人間(管理職、看護師さんだと師長さんっていうんだってねー)が起こらないようにコントロールするべきだと思うのですが、
空気感を醸成するというスキルがない/空気感を察知する能力がない 人が上司の場合に起こる損失は、けっこう大きいと感じます。
「あの人がいると汗が出てきて心拍数が上がってミスが多くなっちゃう」
というのが典型的ですが
「本来、発揮できるであろうパフォーマンスが発揮できない」となると、
その分、チームとしての生産性は低下します。
そして何人もが同じ理由で萎縮してしまっている状況だと(今回のケースはそうでした)
チームとしての生産性が著しく低下すると感じます、だから
「暴力的なコミュニケーションをとる人がいる」という問題は
「チームとしての問題」に、還元されるべきだと、大前提で感じる次第です。
でも、看護の世界って、ほんとに抑圧的みたいですねえ…
「もう、やめちゃえば?」と言うと
「だってこんな人どこにでもいるんやで!」
というリアクションが即座に返ってきます、働き方改革の光が早く看護の世界にも当たってほしいなあと感じると同時に、
「暴力的なコミュニケーションがない場所を探す」ということは、快適さを求めてさまよう流浪の民化してしまう……
それは、苦しいですね。
けれど、やはり、この「特定の人間の振る舞いによって起きる苦しい」は
チーム/環境の問題として取り扱われるべきであると、まずもって感じます。
個人として、どのような精神状態が理想か
なにかうまくいかないことがあると、その原因を自分に求めがちです。
「わたしができないからいけない」
「がんばらないといけない」
「こんな自分はいけない」
「苦しくても笑ってなきゃいけない」
みたく、もう、どんどん「苦しむために、苦しくなっている」
そんなふうに、気づいたら、無意識のうちになってしまう = 責任感が強い
そんな子が看護師さんには多いようです(そして、おそらく、ぼくもこのタイプです)。
でも、すごいと感じます。
「きちんと苦しめる」って。それがあるかぎり、ぎりぎりのラインですが、まだ大丈夫だと感じます。けれどこのスパイラルに陥ったら、おそらく2年前後で完全なうつ患者の出来上がりですね!
もしくは「もう仕方ない」という諦め。諦めで、無気力で死んだような顔で仕事に向かっていく…
「苦しいけど、やったろやないかーい!」みたいな心持ちでい続けられるのは、わりと、ウルトラマラソン並の苦行で、心の体力に恵まれた人にしかできないことだと思うんです…
そこで、感じることなんですが、
その「苦しい」を認知できるエネルギーを、じぶんの置かれたコミュニティを良くしていこう、や、他者性のある動機へ還元できたらいいよなあ、ということです。
自分でキレイゴト感に苦笑いしてしまいました…
けれど、本気で、感じるのです。
『3月のライオン』という大好きな漫画があるんですが、ぼくが一番好きなシーンで、
ヒロインのひなちゃんが親友へのイジメを前にして、
「わたしがした事は!ぜったい まちがってなんか ない!!」と歯をくいしばりながら、
「卑劣な行為をわたしは許さない」と、決めるシーンがあります。
ぼくもこのシーン、なんど見ても「あれおかしいな…?涙が…」状態なんですが
これ、「苦しい原因を、じぶんの無力さに還元しない」ことを決意したシーンだと思うんです。
「この行為が許されるコミュニティは、おかしい!」に、エネルギーを向けること。
それは、とても建設的な感情で、なにより、そこに、気持ちが向いたとき、その人はそのコミュニティにとって、希望の灯となると思います。
以上、どうせなら、どこに苦しむかを、選ばへん? って話でした。
〈32分〉