「他者性に対して、ひらいてる?」という話。

 

 

コアな価値観の言語化に挑戦します。

 

 

 

前回のエントリで、このような文章を書かせてもらったのですが…

 

taaaaaaaaa.hatenablog.com

 

 

こちら、一瞬ではあったようですが、はてなブログのトップにあがっていたり、

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なにより、9SARI(ご紹介した日本を代表するHIPHOPアーティスト、漢 a.k.a. gamiさん率いるレーベル)のオフィシャルアカウントがリツイートしてくださって…!

とっても嬉しいです、ありがとうございます!

 

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「調子いいときに市場を拡大しないと、未来がないよねえ」という話だったのですが、

ラッパー・漢さんのように「自分の安心できる仲間」だけではなく、外の人や、違う業界の人とも一緒に目的を設定して目指していけるって、めちゃくちゃ難しいことですよねえ…

 

このような、安心できる場所、コンフォートゾーンのそとにいることを「他者性」とぼくはよんでいるのですが、

「他者性を許容できる」こと、「他者性に身を投じることができる」こと、

ぼくにとって、かなりコアな価値観だなあと感じ、文章にしておこうとの思ってのエントリです。

 

 ひとことで言うと、こういうことです。

 

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 (スチャ◯ラパー風のアイキャッチをつくってみた)

 

 

 

他者性に対してひらいているか?

 

 

ミレニアム世代の特徴、そして、「ああ、この人歳とってんなあ…」と思う大人と、そうでない大人をわけるもの、それは「他者性に対して、ひらいているか」という感覚の有無です。

 

あいまいなな表現となってしまうのですが

「信頼の対象が 、限られた共通の体験をもっている人だけじゃないか?」

というような感覚とでもいえばいいでしょうか…

 

 

たとえば、新しい経済といわれるシェアリングエコノミーですが、

これに対して「知らない人と共有するなんて理解できないわ」という反応となるのか、それとも「共有が世界をひろげてくれるよね!」という反応になるか…

 

 

ああ、そうだ、まちづくりや地域活性化でとても顕著に現れると感じます。

 

衰退していく地域と、縮小社会を前提に適切なデザインを目指す地域の違い。

これも、地域にとっての「他者性に、ひらいているか」が、大きな要素だと考えます。

 

 

島根県海士町というモデルケースなどは、地域おこし協力隊を有効に活用し、革新的な取り組みを次々に行っています。

 

日本海の離島にこれだけ求人があるんだぜ…? しかも、役所HPに掲載されているだけだぜ…?信じられる?

 

www.town.ama.shimane.jp

 

 

海士町の急速冷凍技術、CASシステムと並び知名度を誇る取り組み、公立学校魅力化プロジェクトですが、(高校消滅=15歳〜18歳人口+家族の人口流出という)危機的な状況をまえに、生徒数のV字回復のプロジェクトを主導したのは、

東京都生まれ、海士町には縁もゆかりもない、岩本悠さんだったそうです。

 

megurinowa.jp

 

いっぽうで、衰退していく地域は、地域の中で利権を過剰に気にしていたり、

「街のため!」と言いつつ、結局は自分への利益誘導だったり、いつまでも自分の居場所を誇示したいおじいちゃんが要職に居座り続けたり…

 

このような「自分のことしか考えていない」

これが、「他者性に対して、ひらいている」と対極の振る舞いに感じます。

 

 

Facebook創始者マーク・ザッカーバーグさんの、ハーバード大学卒業生にむけられたスピーチのなかでも、「ああ、このひとは他者性に対して徹底的にひらいているんだなあ」と感じました。

 

keizokuramoto.blogspot.jp

 

 

「 " わたしだけが満足 " では、もはや幸せになれない。みんなが目的を持てる社会をつくる、これがわたしたちミレニアム世代の使命です」

 

 

ザッカーバーグはこのように語ります。

そうそう、この「他人(社会)も自分ごとである」という感覚、これは「他者性に対して、ひらかれている」ことの特徴とヒントかと感じます。

 

記憶に新しい、枝野さんの演説の光景。

 

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枝野さんが口にされる「市民の力を国政へ!」という言葉、これも

「自分の力だけではない、他者性を包容しながら」ということに感じます

(このケースは、もしかするとブランディングの話になるかもしれませんが)。

 

 

前回のエントリ、漢 a.k.a gami さんが「カルチャー全体へ還元されるようにさまざまな挑戦をしている」も、他者性に近いものだと考えます。

 

 

ああ、でもこれ、世代で区分けされるものなのではないのかもしれないですね。

この、ある種の連帯感。全体主義まではいかず、けれど、なにかの一員であることを前提とする認知、

 

これは、もしかすると「大義」だったりにつながるものであるかもしれませんね。

 

いくらすごい人でも、この感覚を共有できる人でないと「人格的に優れている」とは思えないなあと感じます。

 

 

 

「優しさ」や「大義」にも言い換えられるかと感じた次第です、この、他者性にひらいているか、という話。

「ずっとつながっていくことになるんだろうなあ」という仲間には同質のものを感じますし、

Facebookはじめ、Googleや、一世代で帝国を築いた彼らから、感じることも、

「他者性に対して、ひらいている」ということなのであります。

 

 

書きながら、感じました。この「他者性に対し、ひらかれているか」という感覚は、

ほんとにぼくの価値観の根底にあるものであり、その部分への認知は鋭く働くところであり、

地域活性化や取り組み、広義の事業に対しても、この感覚で認知していると感じました。

 

そして、まだまだ言葉にならないなあ、も…!


前世代の「みんなで共有できる価値観」であった宗教は(日本では少し違うかもしれませんが)、

「同じ信仰をもつ人々の共助システム / 社会基盤」の側面も強いと思います。

けれど、21世紀の社会基盤としては機能しえなくなっているのだと感じます。 

 

まだまだ、考えたい。

「ひらかれている」という感覚のもと、いろいろな取り組みや事業が立ち上がり、

そしてその中でまた戦略的にも優れたものが、文化や社会基盤になっていくのだと感じます。Facebookのように。

 

 

 

あなたはこの感覚、認知できますか? ひらいていますか?〈42分〉

 

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